趣味で地理・地学

趣味で地理・地学をやっています。役に立たないことほど,おもしろい。

私の“地履歴書” その①

 前回の記事で,自己紹介やブログの方針についてお話しさせていただきました。

 今日は,私の地理・地学のバックグラウンドについて,お話ししたいと思います。地理の履歴書,略して”地履歴書”です。(なんかヒストリカルな響き…)

 

私が地理・地学に興味を持ったきっかけ

 そもそも,私はなぜ地理・地学に興味を持つようになったのか。はっきりとしたきっかけや理由は今でもわかりません。大学院時代の研究室の仲間は,小さい頃からだんだんと自分の住む地域の開発が進んでいく様子を見て地域変化の様子に関心を持ったとか,山に囲まれて育ったから地形変化に関心を持ったとか,色々ありました。ただ,私はきわめて平凡な千葉のニュータウン育ち(※千葉ニュータウン印西市)ではありません)で,下総台地を削って盛ったような土地にできた均質なコミュニティの中ではそういう興味も一切わかず,なぜ地理・地学を好きになったのか不思議なものです。

 (余談ですが,私の弟(3歳下)も同じ環境で育ちながら,大学は地球科学系の学科に進み,中学理科の教諭をやってます。いよいよ謎です…)

 

我が家のカーナビになった私

 唯一,地理・地学好きの関連エピソードとして挙げられるのがこれ。私は幼稚園入る前くらいから,大人(ここでは父や祖母)の運転する車の助手席で行先案内板を見て漢字込みで地名を覚え,それをよく大人に話していました。読めない漢字があると,「あれなんて読むの?」みたいに毎度問いかけ,それを教えてもらうたびに知識が増えていく感覚がとても嬉しかったのを覚えています。

 小学校低学年の少年が地名を読めるようになり,車の助手席に座っていると次にどうなるかというと,道案内をやるようになります。当時(1990年代後半)は,まだスマホはおろか,カーナビもほとんど世に出ていない時代でした。たとえ最先端のカーナビを搭載した車であっても,めちゃめちゃいかついアンテナをルーフの四方に突き出しながら走っててダサいし(これはあくまで私や両親の主観),精度も低くて別の道路を案内されることがあるらしいし(これは親戚が言っていたいわゆる口コミ),おまけに高価だし…ということで,うちの車に導入されることはありませんでした。

 概ねバブル期に車を買ってドライブしていたような世代の方々はそういう経験をされている(一種の様式美)と思いますが,父は道路地図を片手に,道路の実情や案内標識・行先表示板と照らし合わせながら,あー間違えたとかここはこう曲がればよかったとかいいながら目的地までの道のりを走るわけです。運転しながらだと,当然地図はリアルタイムで見られないわけで,曲がる交差点を間違えることも多かったし,いったん停車して経路を確認するようなことも多くありました。しかも紙の地図だから(当たり前ですが)倍率を変えられなくてめちゃめちゃ目を近づけないと解読できないし,夜道だと暗がりで見ないといけないから車内灯だけでなく懐中電灯も必要になったりして大変…。助手席の私は,その様子を見て,幼心に「なにか役に立ちたいな」と思ったのでしょう,次第に地図を膝の上に載せ,行先表示板と照らし合わせながら道案内をはじめました。

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ミリオン道路地図
こういうのをドライブのたびに父が車のドアポケットに入れていて,毎度見せてもらっていたし,これを使って行先案内もしていた。でも旧道とバイパスの描き分けが不十分だったり,市街地の道路構造を描けてい無かったりするので,そういう場所ではよく親子で面を喰らっていた。
( https://www.mercari.com/jp/items/m13969479196/ より引用)

 道案内というより,ただ純粋に,未知の景観を見ながら,自分は今どこにいてどちら方面に向かっているのかが気になっていただけなんだと思います。好奇心に毛が生えたような感じです。はじめは自らの幼少期の優れた視力を生かして看板の地名を読むくらいでしたが,小学校中学年くらいになると頭の中で考えながら経路を提案するようになりました。父の実家は秋田なので,お盆休みは我が家のオデッセイ(初代なのでサードシートの右横スペースにスペアタイヤがドカンと置かれてる,今考えたら空間効率めちゃくちゃなやつ)で千葉から秋田までドライブするのですが,高速道路は例に違わず渋滞するので一般道で向かいます。父が「渋滞を避けながらできるだけまっすぐ北上したいんだけど,どういうルートがあるか?」なんて助手席の私に問いかけると,私は「ここからだと下館抜けて大田原とかの方に向かうのが一番かもね,国道408号」とか地図を見ながら応答してました。今振り返っても,なかなか優秀なカーナビですね。

 余談ですが,千葉から秋田への道のりは片道500km以上あるので,基本的に退屈です。それを紛らわすために家族4人で(後部座席の母と弟も交えて)しりとりをしたり,ダジャレを考案したりと,ありがちな暇つぶしをしていました。これらに加えて,誰が思いついたのか今となっては思い出せませんが,「次のコンビニ当てゲーム」なるゲームに興じていました。現在地の地域特性を総合的に考慮しながら「次はHOT SPARだな!」「じゃあ俺はファミマ」「いやサークルKだろ」…(しばらく走行後)「うわ〜,コミュニティストアかよ〜!」とかワイワイやっていました。たいそうくだらないゲームですが,今になって思えば,地域が変われば物流や商業の特性も変わる?という,当たり前の地域間比較の視点?を養っていてくれた気がします。現在ではどの都道府県にもセブンイレブンがあるし,サークルKやサンクスは全部ファミマになってしまったし,おまけにフツーにGoogle Mapsで答え合わせができてしまうので,おそらくやっても面白み半減ですね。

 もちろん,今思えば,帰省先の秋田での経験も,それはそれで私を地理・地学の世界に誘うのに十分なものがありました。(リアル異文化コミュニケーション)。これについてはまたいつかの記事でお話ししたいと思います。

 

学業優秀な小中学生時代

 地理・地学好きのはっきりとしたきっかけがないにせよ,素養は着実にできていたsyumichiri少年。小学校から中学校までずっと,好きな教科は理科,嫌いな教科は体育。理科好きなのは割と首尾一貫していて,小学生くらいだと大抵その教科担当の教師が好きか嫌いかで好きな教科も変わってくるような人も少なくない(らしい)ですが,私は「理科の〇〇先生は嫌いだけど理科に罪はない」主張を地でいくようなヤツで,嫌いな教師ほどあとで気に入られるような少年でした。(別にそういう教師に迎合しているわけでもないし媚び諂ってるわけでもないのですが,フツーに満点が取れてしまうのでそういう教師ほど私のような生徒を“お気に入り”としてしまうらしいのです。これ当時はよくわからなかったのですが,妻(小学時代はリアル「ハリー・ポッター」のハーマイオニー)も同じような経験をしていてなんとなく理解できました)

 理科好きに加え,中学校に入ると社会科も面白いと思うようになりました。なんとなくですが,往々にして,幅広い知識に触れ,それが身についていくことに喜びを感じていたんだと思います。

 思えば博識は憧れでした。中学時代は日曜の午前中の部活(卓球部)の練習が終わって昼過ぎに帰ってくると,欠かさずアタック25を見ていた時期もありました。テレビ画面の出場者よりも先に正答できた問題があると得意げな顔になったり,誤答すると負け惜しみを言ったりするのが習慣になっていました。いつか収録スタジオで児玉清さんに紹介されて青の座席に座りたいな…とか,でも出場できても,パリ・ロワール・モンサンミッシェル9日間の旅をゲットするのは至難の技だろうから所詮スワロフスキーの参加賞が関の山だろうな…とか思っていました。(そうしてグダグダしていたら児玉さんは亡くなってしまい,もうその夢をかなえることはできなくなってしまいました…)。クイズ番組は今でも好きで,(ここ数年のクイズ番組の乱立の中には,多少趣味が合わないものもあって手放しで喜んでいるわけではありませんが)仕事終わってテレビつけて放映されているとつい見てしまいます。また,みなさんご存知の QuizKnock は,知的好奇心をくすぐられるし純粋に博識性を遊び楽しんでいる様子が垣間見られていいですよね。
quizknock.com

 こういう,幅広い知識が得られるものが元来より好きだったんだと思います。地理や地学は,まさに人文科学,社会科学,自然科学を網羅しながら,それらの中にある諸知識を関連づけて体系的に理解していく学問なので,いま考えると私は至極真っ当な趣味をぶちかましています。

 

高校で学業停滞,部活に明け暮れつつも,“移動すること”への欲求が絶えず…

 全教科で成績優秀,中学校では塾にも通わず何度も学年トップ(とはいえ昭和50年代に造成されたオールドなニュータウンに隣接する地元の山の中の中学校で一学年120人くらいの小規模校なので大したことはない)をとった少年は,高校入試で人とちょっと違う進路を歩みたく思い,偏差値帯ではもっと近所に適当な学校があったもののアウトオブ眼中(30年前の言葉?)で,千葉では“県立御三家”と称されるうちの一角,最近ではOBのディーン・フジオカパイセンの活躍が誇らしい某F高校に進みました。そこではやっぱりみんな頭がよく,要領のいい人間が多くて,部活をガッツリやりながら学業も疎かにしないというのがフツーに達成できる連中が多くいました。そんな中,私は週7で部活に没頭してしまい,しかも合唱部で学生指揮者なんてやってたものですから,高1の中盤から早速学業停滞,高2で赤点を叩き出すような状況になりました。(こういう学生時代を送っている予備校講師の体験記ってそこら中にありますよね…もう例に違わずのオンパレードでつまらなくてスミマセン)。

 とはいえ,赤点をとったのは英語(ライティング)の一度きりで,知識を取り入れることに吝かでなかった私は,定期テスト直前期に知識を詰め込んでそれなりの点数を叩き出していました。(詰め込んでもなんともならない英語が最高にキツかった…)。詰め込みで踏ん張る中でも,理科系少年にとっての大敵は社会科(歴史と公民系)でした。こういう教科は,大人になってから知識が相対化され経験と紐づいてくると興味が湧いてきて自然と学ぶものだと思われるのですが,高校生当時の私はほとんど関心がなく,関心がないのでなんとかモチベーションを保たなくてはならないと思い工夫が必要でした。そこでよく実践していたのが,「大回り暗記法」(自称)でした。鉄道好きの方であればご存知と思われますが,初乗り(当時は130円)のきっぷを買って,一筆書きの経路で大回り乗車ができるんですよね。これを使って,テスト直前の休日の夕方には,閑散エリアの電車内をマイ自習室と化させ,移動(乗り鉄)することにモチベーションを見出しながら暗記していました。

大回り乗車について trafficnews.jp

 成田線我孫子〜成田間はとりわけ良質な自習室でした。閑散とした車内で,単線のため待ち合わせがあると数分間停車して,またゆっくり走り出して…みたいな繰り返しが程よい刺激になり,よくわからんカタカナがスッと頭に入ってきました。これは完全に少数派だと思うのですが,私はよく物事を場所と結び付けて覚えることをしていて,布佐駅でこのキーワードやったな,とか,安食駅でこのテーマを理解したぞ,とか,場所の記憶があるとそれで瞬時に思い出せるという特性がありました。いわば,謎のジオコーディングをしていたわけです。なんでですかね,心理学とか脳科学?の中で,これに説明がつく概念があればぜひ知りたいです。

 そういうふうにして,移動することを楽しみながら定期テストを切り抜けていました。移動することへの欲求はさらに募り,何かにつけて新しい場所に行ってみたい,みたいな気持ちがありました。高2で単身名古屋へ,部活の演奏曲の勉強にと,ムーンライトながら(定期列車で313系で走っていた頃)を利用して0泊3日のスケジュールで旅したのも思い出だし,夏に演奏曲の詩の理解を深めるべく取材?の一環で,秋田に帰る道中に岩手の花巻に立ち寄ってもらったこともありました。取材とは都合よく銘打っていますが,実質ただ行ったことのない場所に行きたいだけ,その口実がほしいみたいな感じだった気がしています。

 そういえば(時系列がずれますが),小学5年生の夏には自由研究と銘打って,お盆の秋田行きの車を大きく迂回させて気仙沼の漁港を訪れ,漁港の地域的特性や漁獲高の比較などして模造紙2枚分にまとめて提出,小学6年生の夏には伊能忠敬記念館を訪れ,伊能忠敬の業績や当時の測量技術について調べて模造紙2枚分にまとめて提出,いずれも小学校代表作品で市民ホールに展示されていました。やっぱりどこかに行きたいだけの少年だったようですね。(それでいて地理好きの片鱗が垣間見える…)

 時を戻しますが,高校も3年になると,進路について本格的に考え,どういう学部に進もうか,何をやろうかと悩む時期でした。小学校の頃から理科系少年だったこともあり,特に化学の実力は誰にも負けないほどであったため,まあ自分の得意なことから順当に行けば化学系の学部学科かな,という思いでいました。しかし,ここで人と違うことをしたい気持ちが心の片隅にあった私は,やはりどこか違和感がありました。わが母校は「〇〇重点校」みたいなやつに指定されがちだったため,大学の教員や研究者が課外で高校に出前授業のようなかたちで講義や実習を開いてくれたことがありました。(確かSSHとかいう名称でした)。これも記憶の片隅ですが,そこで(確か東大か東工大の名誉教授による)有機化学の結合論の講義を受けたことがあり,また(千葉大を訪れて)地球科学の手法であるリモートセンシングの講義や実習にも参加したこともありました。誠に勝手な主観的判断なのですが,私は圧倒的に後者の方が面白く感じられました。(受験勉強そっちのけで,受験に関係のない実習に参加してんじゃねえよという話ですが…)

 

そして,地理・地学の方向に人生の舵を切った

 そこからは,もうほとんど地球科学一択でした。模試でも,志望大学をマークする登録用紙には地球科学関連の学部を書き連ね,センター試験の選択科目は(本当は地学を選びたかったけど当時の試験日程だと地学と化学が同時に実施されていて,化学がバリ強かった自分には化学を捨ててまで地学を選ぶことができず)物理と化学になり,社会科は地理を選び,黙々と受験生をやっていました。好きな教科があると,それが息抜きになり,苦手な教科の勉強を頑張れるみたいな好循環が生まれ,次第に成績が上がりました。ただ,どうしても“性に合わない”気がして,成績がなかなか上がらなかったのが物理でした。今考えれば,正しい勉強法ないしは正しい解法を学んでいなかっただけで,大学以降で改めて物理に触れながら塾や家庭教師で教えながら学ぶとすんなり理解できたので,ああやっぱり師は大事なのかも…と思います。しかし,当時はそんな余裕もなく,いかにして地球科学の行きたい大学の合格ラインに乗っかるか,を真剣に考えました。人と違うことが元来好きな私は,ある大学の地球科学系学科の入試科目に驚きと感動を覚えました。「あれ,二次試験の理科の選択科目に,“物理・化学・生物・地学・地理の5科目から2科目”とあるやん…これだ!」

 二次試験で地理を使うことにしました。夏くらいに決めたので,なかなかリスキーな変更でしたが,「好きこそ物の上手なれ」とはまさに言い得たもので,知識の幅が広がり,因果関係を結び付け,論理的に整理して理解できる地理はみるみる実力が上がっていきました。高校の月曜7限の総合学習の時間(これだけでゆとり世代がバレる)は,進学校であったこともあり,各々の受験に必要な科目を探究できるように開設されていたのですが,そこでガッツリ地理を選択しました。理系はおろか,文系でもそんな選択をする人は学年320人中で誰一人としておらず,私と地理の先生のマンツーマンで演習を続けました。地理の知識が増えると,苦手だった英語で出てくる文化論や国際社会に関する長文がだんだんと読めるようになってきて(これはかなり邪道な上達法),本文中の論旨がたまにわからなくてもこういう文脈だろうとかいう危険で間違った解法で英語を乗り切るうちに,S台予備校に通い英語と数学を鍛錬していたことも功をそうして,だんだんと構文が理解でき,得点できるようになってきました。(こういう経験のある方って割と少なくないのかも?)。繰り返しになりますが,こういうことは絶対に真似してはいけないし,いま予備校で仕事をしていても決してオススメしていないです。

 ところで,地理の入試に関しては,そのうちこのブログでも特集としてアップしたいと思っています。各大学に傾向が顕著で,特に論述問題は思考のトレーニングになるし趣味としても相当楽しめるので。乞うご期待です。

 そうして,入試を終え,無事第一志望の大学に合格できました。地理と地学に救われ,人生の羅針盤を地理や地学からもらいながら,地球科学のメッカ?とも言えるであろう某陸の孤島大学に進むことになったのです。(なぜ地球科学のメッカなのかについては,これも後日書くかもしれません…)

 

…と,ここまでで既に7,000字を超える記事になってしまいました。大学以降の続編は,また近いうちにアップしたいと思います。

お読みいただけていたら,ありがとうございます。またどうぞよろしくお願いします。